みなさんの中にも、「田中正造」という人物名を教科書で見たことのある人たちもいるでしょう。
田中正造は明治時代の政治家で、日本初の公害事件「足尾銅山鉱毒事件」を告発し、その解決に生涯を捧げた人物です。けれども、教科書の事実だけでは、その奥深さは伝わりづらいのも現実です。
この記事では、田中正造がすごいと言われる理由について掘り下げています。また、気になる人物像や名言も紹介しているので、興味のある人たちは参考にしてみてください。
田中正造のプロフィール
Wikipedia『田中正造』より引用
田中正造は栃木県(旧下野国)出身の政治家・社会運動家です。もともと村の名主の家に生まれ、自由民権運動を経て、1890年(明治23年)に第1回衆議院議員総選挙で当選しました。
その後も連続当選を重ね、国会では主として足尾銅山の鉱毒問題を取り上げ、渡良瀬川沿岸の被害農民を救うために奮闘し続けます。この問題への取り組みが田中の政治家人生の中心となり、彼は後年まで一貫して公害被害の救済に尽力しました。
やがて政府の対応が進まない現実を目の当たりにすると、田中は議員職を辞して直接行動に移る決断もしています。特に、1901年(明治34年)12月、明治天皇に足尾銅山鉱毒被害の救済を直訴しようと試みたことは有名です。
その後は議員を離れ、鉱毒沈殿池(渡良瀬遊水地)建設のために廃村の危機にあった谷中村に住み込んで住民とともに抵抗を続け、晩年まで各地で治水対策を訴えました。
1913年9月、72歳で生涯を閉じますが、田中正造は「明治の義人」とも呼ばれ、人々の生活を守るために戦ったその姿が今も語り継がれています。
田中正造がすごいと言われる理由
プロフィールを読むだけでも、田中正造が偉大な人物であることは明らかもしれません。けれども、田中の凄まじさは、彼が生きた人生の軌跡を辿れば辿るほど心に迫るものがあります。ここでは、田中が「すごい」と言われる理由を3つの視点から説明していきます。
理由1:日本初の公害問題に命懸けで挑んだ先駆者
第1に、田中正造は日本初の公害問題に命懸けで挑んだ人物であることが理由として挙げられます。
足尾銅山鉱毒事件とは、明治時代に栃木県の足尾銅山から流出した亜硫酸ガスや鉱毒水などの有害物質が渡良瀬川流域の環境と住民に甚大な被害を与えた日本における公害問題の原点とも言うべき出来事です。
渡良瀬川の様子
田中正造はこの深刻な鉱毒被害にいち早く着目し、国会議員としてその救済を政府に強く訴えました。
具体的には、衆議院議員当選後ただちに足尾鉱毒問題を国会で取り上げ、被害地域の実情を調査して政府に改善策を求め続けました。渡良瀬川沿いで農作物が枯れ、魚が棲めなくなり、住民の生命と暮らしが脅かされる状況を放置できなかったのです。
田中は足尾銅山の操業停止や被害農民の救済を求めて国会で何度も質問し、演説や新聞記事を通じて世論にも訴えました。その国会内外で一貫した粘り強い活動によって、公害問題が全国的に知られる社会問題となり、田中正造は事実上、日本初の環境保護運動を主導した人物となったのです。
当時の政府や企業が経済発展を優先しがちな中で、公害による被害者の救済を命がけで追求した田中正造の姿勢は特筆に値すると言えるでしょう。
理由2:明治天皇への直訴など権力に屈しない行動
第2に、田中正造は「明治天皇への直訴」という当時では禁忌とも言われるべき行動に出るほど、本気で公害問題を解決しようと努めた点もすごいと言えます。
田中は1901年、政府が鉱毒問題に十分な対策を取らないことに業を煮やし、自ら議員を辞職して天皇に直接訴状を渡そうと決意します。直訴当日は死をも覚悟して臨んだとされ、実際に同年12月10日、東京・日比谷で行幸中の明治天皇に鉱毒被害救済を訴えました。
警官隊に取り押さえられて直訴自体は未遂に終わりましたが、田中の命がけの行動は当時の新聞号外で大きく報じられ、足尾鉱毒事件の存在と直訴状に記された内容は全国に知れ渡ります。
結果として直訴により事件への世論の注目は高まり、公害問題が「お上」にまで届かないなら命がけで訴えるしかないという田中の信念が示されました。権力の圧力や危険を恐れず正義を貫いたその姿は、現代でも伝説的なエピソードとして語り継がれています。
理由3:被害住民に寄り添い最後まで戦い抜いた姿勢
第3に、田中正造が被害住民に寄り添い、最後の最後まで戦い抜いたこともすごいと言われる由縁です。
議員を辞めた後の田中は、公害対策として政府が計画した渡良瀬川下流での貯水池建設に真っ向から反対しました。鉱毒被害が深刻だった栃木県谷中村などを強制的に廃村にして遊水池にする案に対し、田中は自ら生活の拠点をその谷中村に移して住民と行動を共にし、断固たる抵抗を続けたのです。
谷中村は最終的に遊水地に沈む悲劇を迎えましたが、田中の必死の運動により、周辺の利島村・川辺村の二村は遊水地化を免れ、存続することができたと言われています。
その後も田中正造は、公害によって故郷を追われた人々や遊水地に沈んだ村の元住民たちに寄り添い続けました。村が強制的に破壊された後も、一部に残った住民と共に谷中村跡地に踏みとどまり、彼らの生活再建に力を尽くしています。
さらに全国各地の河川を歩いて回り、被害の実態調査や治水策の提言を精力的に行いました。老齢となってもなお現地調査に奔走するその情熱は周囲を驚かせましたが、晩年ついに体を壊し、1913年9月に帰らぬ人となりました。それでも田中正造は最期まで信念を曲げず、人々の暮らしと自然を守るために戦い抜いたのです。この徹底した献身と行動力こそ、田中正造の凄まじさなのです。
田中正造はどんな人物だったのか?
公害問題と政治闘争のエピソードからもわかるように、田中正造は信念と情熱に生きた人物でした。その人物像を端的に言えば、「生涯を公共の利益に捧げた稀有な政治家」です。自身の地位や利益よりも困っている民衆の救済を第一に考え、権力に媚びることなく正義を追求し続けた姿は、多くの人々の心を打ちました。
田中正造は形式ばった肩書きや名誉には頓着せず、農村出身らしい質素な身なりで活動したとも伝えられます。実際、議員を辞した後は背広を脱ぎ捨て、被害地域の農民と同じ粗末な服装で行動したといいます。そうした飾らない人柄と強い使命感ゆえに、被害住民たちは田中を深く信頼しました。
田中自身、「政治は民のために公共の問題を処理する手段にすぎない」と考えており、その初心を生涯失わなかったと評価されています。権力側からの妨害や冤罪にも屈せず、「民を救えるなら政治の地位など惜しくない」という覚悟で行動し続けた点は、田中正造が「義人」と称されるゆえんでしょう。
田中正造が残した名言
田中正造が残した名言には、次のようなものがあります。
「真の文明ハ山を荒さず、川を荒さず、村を破らず、人を殺さゞるべし。」
レファレンス協同データベースより引用
1912年(明治45年)6月17日付けの田中の日記に記された言葉で、「真の文明とは山を荒らさず、川を汚さず、村を壊さず、人を殺さないものでなければならない」という意味です。これは足尾鉱毒事件を経験した田中正造だからこそ紡ぎ出せた重みのある名言であり、経済発展の陰で自然破壊や人命軽視があっては文明とは呼べないという彼の強い信念を表しています。
「世をいとひそしりをいミて何かせん 身をすてゝこそたのしかりけれ」
産経新聞より引用
この名言は「世の中を憂い、大勢の意向に反すると誹謗中傷される。しかし、命をかけるからこそ楽しいのだ」という田中正造の生き様を表現する名言です。明治31(1898)年9月25日の日記に記されています。
まさに、この言葉にある通り、田中は自らの命を顧みずに公害から人々を守るために戦い抜いた人生を歩み切っています。誰にでもできることではありませんが、本人が生きることの醍醐味として全力を尽くす楽しさを知っていたからこそ、初志貫徹の人生を生き抜いたのかもしれません。
民ヲ殺スハ国家ヲ殺スナリ
足尾銅山鉱毒事件を巡る農学者群像より引用
この名言は田中正造の国家観を物語るものです。足尾銅山の操業継続による被害を痛烈に非難した国会演説で語られたと言われています。
どの言葉からも、弱い立場の民衆や自然環境を犠牲にするような文明の在り方に対する怒りと、人間中心の本当の政治・経済の実現を求める情熱が感じられます。総じて、田中正造は強い正義感と行動力、そして深い人間愛を兼ね備えた人物でした。困難な状況でも決して諦めず、自ら現場に飛び込んで問題解決に挑むその姿勢は、同時代の人々のみならず現代の私たちにも大きな感銘と示唆を与えてくれます。
まとめ:人々の生活をまもるために戦った政治家だった
田中正造は、明治時代という日本の近代化のただ中にあって、経済優先の社会に一石を投じた稀有な政治家でした。足尾銅山鉱毒事件において、公害によって苦しめられる人々の生活を守るために命がけで戦い抜いたその姿は、「国民のための政治とは何か」を体現したものと言えます。
議員の職すら投げ打って権力に立ち向かった勇気、被害住民と寝食を共にして最後まで寄り添った献身、そして「真の文明」に関する名言に象徴される確固たる信念──いずれも並外れたものです。
彼の行動と思想は、日本における公害問題の原点として後世に大きな影響を与え、現在でも環境正義や社会正義を考える上で輝きを放っています。現代の私たちが豊かな生活を享受できている陰には、田中正造のように市井の人々の権利を守るために奮闘した先人の存在があったことを忘れてはならないでしょう。
参考文献
- 東京都立図書館「一身以て公共に尽くす-田中正造-」(2013年11月11日作成)https://www.library.metro.tokyo.lg.jp/readings/pickup/201311/ (2025-10-30閲覧)
- 埼玉県加須市公式サイト「明治期の社会運動家/田中正造」(更新日:2021年11月30日)http://www.city.kazo.lg.jp/soshiki/shougai/kazonoijin/tanakashouzou/20744.html (2025-10-30閲覧)
- 埼玉県加須市公式サイト「田中正造の墓」(更新日:2017年12月20日)http://www.city.kazo.lg.jp/soshiki/shougai/kankou/kitakawabechiiki/6523.html (2025-10-30閲覧)





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